第2回 八間門を備える邸宅

木下邸(飯田市 松尾)

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 木下邸は羽根の屋号で親しまれ、飯田城の八間門を移築している家として知られている。

 飯田城の建築物は明治維新後にほとんどが取り壊されたため、現在残されている遺構としては少なく、主要なものとして旧城内に残る現在の市立図書館わきの赤門と明治以降に現在の地に移築された経蔵寺、雲彩寺そして木下邸の八間門の四棟のみである。

 八間門とは門の幅が八間であることに由来している。しかし現存は五間である。移築の時に規模を縮小しているとは言え、創建当時に八間であったかは不明である。七間から九間くらいだと縁起を担ぎ八間門とするのが一般的であったようである。この門は現存する飯田城の遺構としてはもっとも古い創建で文禄年間(1592〜1596年)とされている。門は切妻造り二階建ての門で中央に大扉があり、両側にくぐり戸がある。二階は大扉よりも前面に張り出してそこには石落としを設けている。石落としとは石も落とすだろうし、長槍で上から攻撃もできる。賊あるいは敵を防ぐ為の建築構造である。

 この門が創建された文禄年間とは豊臣家が朝鮮出兵で諸侯の反感をかい、一方の徳川家はその出兵を免れ、力を温存しながら沈黙をたもっていた時代である。時の城主はこれらの世の流れをこの片田舎でも察知していてまだ戦乱の世は続くと読んでこの門を創建したかもしれないと筆者は空想している。

 時は下って明治の廃藩の時にこの八間門は城主の堀氏から懇意であた木下家に譲渡されて現在に至っている。また平成10年に飯田市の有形文化財に指定されている。

 ところではこの八間門の前には堀のような池があり、また門に続いて塀にかこまれているので木下邸はさながら城郭である。八間門をくぐると、築後200年は経つだろう本宅は土庇のついた本棟造りで入母屋造りの二棟の離れがある。そのわきの小さな門から庭に通じている。下の写真の左の長屋は最後の飯田城主堀親義候が滞在された場所である。候もこの庭を眺められたことだろうと思いながら撮影させてもらった。

 さてさてこの地方において、いかに大切なものが木下邸にあるかをこんこんと述べてしまったが、建築物と共に主題は今の当主の木下さんである。筆者などが言うのはおこまがしいが、木下さんはお話を伺ってもそのはしばしにこの史跡を守っていきたいという気持ちが伝わってくる。話だけではなく、何回かこの取材で伺っているが、この邸にはゴミはもちろん雑草もなく常に整っている。またこの門を維持する為の経済的負担は有形文化財の指定により行政のサポートはあってもまだまだ所有者に依存しているのが現状である。そんなことから何か頭が下がる気持ちで撮影させていただいた。
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参考文献「下伊那文化事典文化財」新葉社刊
「長野県史」長野県史刊行会刊